#123
ミミズイソメ事件から、数日後。
朝の海は、まだ少し肌寒かった。
空はうっすらと明るくなり始めたばかりで、堤防の上には、ライフジャケットを着たおそと部の面々と――理事長が立っていた。
全員、足元にはそれぞれのマイ・ダ◯ソータックル。
いかにも「今日から釣りを始めます」という初々しい装備である。
ただし、一名を除いて。
ひばり「……何釣るつもりなんスか」
理事長の横には、どう見ても業務用サイズのクーラーボックスが鎮座していた。
理事長「ふっ。まあ、楽しみにしておきなさい」
ティアドロップ型の偏光グラスの奥で、理事長が不敵に微笑む。
玲音「……ご自身でフラグを乱立させていらっしゃいますね」
せいら「いつもの“理事長を慰める会”の準備、しといたほうがいいかもね……」
あおいと理事長は、今日はそろってロングヘアを高めのポニーテールにまとめ、キャップをかぶっていた。
背格好も近く、遠目にはほぼ“師弟釣りコンビ”である。
ただし、あおいのサングラスはスポーツタイプ。
理事長のサングラスは、明らかにバブルの残り香がした。
せいら「サングラスに世代を感じるわね」
理事長「なにか言ったかしら」
せいら「……なんでもないです」
あおい「り、理事長先生のサングラスも、ばり似合っとりますよ!」
あおいの全力フォローが、朝の堤防にやさしく響いた。
堤防には、ほかの釣り人が数えるほどしかいなかった。
足場は広く、柵もあり、初心者が始めるには申し分ない環境である。
まずは、仕掛けづくりから始まった。
あおい「じゃあ、まずは糸の結び方からいきましょっか。糸ばこう持って、輪っか作って……くるくる巻いていくとです」
あおいは、全員に見えるように、ゆっくり手元を動かした。
あおい「最後にキュッて締めて……はい、完成です。ここの締めるところは、水でも唾でもよかけん、ちゃんと濡らしてから締めてくださいね。摩擦で弱くなるけん、忘れんでください」
玲音「なるほど。摩擦熱の低減ですね」
ひばり「とりあえず形はマネできたッス!」
りりあ「くるくる楽しいのぉ〜♡」
せいら「ネイル外してくればよかった……」
仕掛けを結び終えると、いよいよそれぞれの準備に入る。
せいら「ねえ、“ルアー”ってやつ、本当に魚が釣れるの?だって偽物の魚でしょ?」
あおい「最初はそう思うとですよね。ちょっと足元で泳がせてみるけん、見とってください」
堤防ぎわに、あおいがルアーを落とす。
そして、竿先をちょん、と動かした。
光を反射した小さなルアーが、水の中でふらっと揺れ、次の瞬間、小魚のように逃げ惑う。
ひばり「うわっ、スゴッ!魚にしか見えないッス!」
玲音「これは……確かに“生き物らしい”挙動ですね……!」
みう「ぴょこぴょこしてますぅ〜♡」
りりあ「ちいさいおさかなさんなのぉ〜♡」
あおいは、少しだけ得意げに笑った。
あおい「こうやってちょこちょこ動かしてあげると、“弱っとる小魚さん”みたいに見えて、パクッて来るとです」
せいら「いやいや、そんなカッチカチのフィギュアが魚に見えるわけ……」
せいらが、ひょいっと堤防のふちから覗き込む。
せいら「……魚だわ」
あおいの口元には、ほんの少しだけ誇らしげな笑みが浮かんでいた。
そして、餌釣り組の玲音とせいらは、別の戦いに直面する。
玲音「……これは」
せいら「…………うわぁ」
二人の手元にあるのは、ダ◯ソーの釣りコーナーで見つけた“集魚剤漬け常温アサリパック”である。
買ったときは「ミミズから解放された」と安心していた。
だが、現実はそう甘くなかった。
せいら「見た目はまだギリ耐えられるんだけど、匂いが攻めてくるわね……」
玲音「ミミズやイソメよりは、だいぶマシ……と、言い聞かせるしかありませんね……」
せいら「こういうのも青春なの……?」
玲音「かなり磯寄りの青春ですね」
サビキ組の三人は、チューブタイプの撒き餌をカゴにニュッと注入していた。
ひばり「手ぇ汚れないの、マジ感謝ッス!」
みう「チューブ、神アイテムですぅ〜」
りりあ「ソフトクリームみたいなのぉ〜♡」
あおい「いやぁ、ダ◯ソーさん、ほんとやりますねぇ。ここまで揃っとるとは思わんかったです」
仕掛けもできて、いよいよ第一投。
サビキ組は足元から少し沖に向かって、ぽちゃん、と仕掛けを落とす。
カゴから撒き餌がふわっと広がっていった。
ひばり「よーっし……行ってこーい!」
みう「おさかなさん、ごはんですよ〜」
りりあ「おいしいごはん、ここなのぉ〜♡」
一方、ルアー組。
理事長は十フィート近い長い竿に、ひときわ大きなルアーをぶら下げていた。
振り子のようにルアーを揺らし、静かにタイミングを測っている。
ひばり「理事長、そのルアー、なんかデカくないスか……?」
理事長「このサイズのベイトを捕食できるフィッシュイーターにしか、用はないわ」
あおい「か、カッコよかですねぇ……!一回言うてみたか台詞です……!」
みう「どんどんフラグが積み上がってますけど、大丈夫ですかねぇ〜……」
ビュンッ
理事長のキャストは、豪快で、それでいて美しかった。
大きなルアーが、朝焼けの海へ一直線に飛んでいく。
続いて、あおいもやや軽めのルアーを、スパッと気持ちよく飛ばした。
玲音「……ルアーフィッシング、カッコいいですね」
せいら「いまの、スローで撮っておけばよかったわ……」
しばらくすると。
りりあ「……あれ?なんか、くいくいするのぉ〜?」
りりあの竿が、小さく震え始めた。
あおい「おっ、来とりますよ!りりあ先輩、ゆっくり巻いてください!」
りりあ「まわすのぉ〜〜!」
ゴリゴリゴリゴリ
あおい「そ、そげん一気に巻かんでよかです!ゆっくりで大丈夫ですよ〜!」
りりあ「ゆっくり全力なのぉ〜!」
ひばり「矛盾してるッス!」
なんだかんだで、無事に海面まで浮いてきたのは――キラキラ光るアジと、茶色い魚と、もう一匹小さめのアジだった。
りりあ「さんびきいっきにつれたのぉ〜〜!」
ひばり「うおっ、トリプルヒットッス!」
みう「すごいですぅ〜!」
玲音「初回から三匹同時……持っていますね」
あおいはすぐに駆け寄り、魚を確認した。
あおい「あ、茶色い子はカサゴさんですね。トゲが危なかけん、ちょっと待っとってください」
慣れた手つきでフィッシュグリップを取り出し、カサゴをがっちりつかむ。
それから、手早く針を外した。
あおい「このアジはよかサイズやけん、お持ち帰りでよかと思います。小さかアジとカサゴさんは、まだちょっとちいさすぎるけん、リリースしときましょか」
せいら「子どもは可哀想だから?」
あおい「それもありますけど、大きくなってから釣ったほうが、うれしかですもんね」
ひばり「太らせて食う、みたいな」
みう「言い方が残酷ですぅ」
りりあ「おおきくなってまた会うのぉ〜♡」
玲音「再会時には食卓ですが……」
小さな魚たちは、そっと海へ返された。
その後、せいら、玲音、みうにも、次々とアジがヒットした。
みう「わぁ〜い、アジさんですぅ〜!」
せいら「おお……手応え、ちゃんとあるわね。悪くないじゃない」
玲音「これは……なかなか知的好奇心を満たしてくれる体験ですね」
ひばり「ウチもそろそろアジ来るッスよ!流れ的に!」
そして、ひばりの竿先が小刻みに震えた。
ひばり「おっ、ウチも来たッス!」
上がってきたのは、ぷっくり膨らんだフグだった。
ひばり「フグきた!」
みう「フグって、ほんとに膨らむんですねぇ〜!“キュー”って鳴き声もかわいいですぅ〜」
せいら「魚って鳴くのね……」
りりあ「まんまるなのぉ〜♡」
その後も、ひばりにはフグが来た。
フグ、フグ、またフグ。
しかもそのたびに、鋭い歯で針がチョキンとやられる。
数投後。
ひばり「……針、全部なくなったんスけど……」
せいら「フグに完全敗北してるじゃない」
あおい「うわぁ、フグさんにやられとるですねぇ……。ちょっと竿、貸してもらってよかですか?」
ひばり「頼んだッス!」
あおいは残ったラインを確認し、予備のサビキ仕掛けを取り出す。
それから、手早くチャチャッと結び直した。
あおい「はい、これでまた行けますよ。今度はちょっと場所ばずらしてみましょか。フグさん多かところは、だいたい偏っとるけんですね」
ひばり「あおい神……!!」
あおい「神ではなかですけど、フグさんは避けたかですねぇ」
みんなの様子を、あおいはどこか嬉しそうに見守っていた。
そして、自分のキャストを繰り返す。
そのとき。
あおいのロッドティップが、コツン、と小さく入った。
あおい「……お」
軽くアワセを入れる。
次の瞬間。
グググッ……!
あおい「おっとっと……!」
ラインが走り、少し沖で魚がバシャッと跳ねた。
玲音「水面で跳ねましたね!」
せいら「さっきまでのアジと全然ちがう引きね!」
魚は何度か水面で暴れた。
だが、あおいは落ち着いて竿の角度を下げ、無理に引かずにいなしていく。
あおい「ええ子やけん、こっちまでおいで〜。無理せんでよかけんね〜」
みう「魚さんに話しかけてますぅ〜」
しばらくのファイトの末、堤防足元まで寄ってきた魚を、あおいが一気に抜き上げた。
銀色に光る魚体が、朝日を受けてきらめく。
あおい「はいっ……セイゴさんです。スズキの子どもですね。三十センチくらいやろか」
ひばり「おお!あおいっち、デカいの来たッスね!」
みう「ピカピカしててきれいですぅ〜」
りりあ「おおきいおさかなさん〜♡」
せいら「普通の一年生って、なんだったのよ……」
あおいのセイゴで、堤防のテンションは一気に上がった。
その矢先だった。
理事長の竿が、グン、と勢いよく曲がった。
ひばり「うお!?理事長!竿が!」
その声で、全員が振り向く。
理事長「――よし、食ったわ」
ジィィィィィィィィ!!
竿が満月のようにしなり、激しいドラグ音が堤防に響いた。
ラインが、一気に引き出されていく。
玲音「リールが逆回転しています!」
あおい「これ……青物やと思います!」
せいら「だ、大丈夫!?竿、折れそうよ!?」
理事長は、偏光グラスの奥で静かに笑った。
理事長「任せなさい。折れるのは――魚の心よ」
ひばり「なんかカッコいい名言きたッス!」
みう「理事長、今日ほんとに主人公みたいですぅ〜」
あおいがアドバイスを挟む余地もないほど、理事長のファイトは完璧だった。
魚が走れば、ドラグでいなす。
止まれば、少しずつ寄せる。
ロッドワークも、フットワークも、無駄がなかった。
ひばり「プロすぎるッス……」
玲音「本当に、何でもできますね……」
せいら「なんで畑では一撃で腰やったのよ……」
みう「向き不向きってありますぅ〜……」
約五分の格闘の末。
銀色の魚体が、ようやく足元まで浮き上がってきた。
ひばり「デカッ!?え、なんスかあれ!?」
玲音「体高が……すごい……」
あおい「ブリさんですね!タモ入れ行きます!」
あおいはドキドキしながら、巨大なタモを構えた。
理事長が魚を堤防際まで誘導する。
そして見事、ネットイン。
あおい「重か〜〜!お相撲さんみたいなごたあります、これ!」
タモごと持ち上げる腕に、あおいの力が全力で入る。
堤防に上げられた魚体は、丸太のように太く、八十センチをゆうに超えていた。
全員「うおおおおおお!!」
せいら「やばっ!!店でも見たことないサイズなんだけど!!」
ひばり「有言実行すぎるッス!!」
みう「クーラーボックス、大きくて正解でしたぁ〜!」
りりあ「りじちょー、つよつよなのぉ〜♡」
理事長は、偏光グラスを少しだけ上にずらした。
ほんの少し、得意げに微笑む。
理事長「ふふ。だから言ったでしょう?このサイズの魚にしか、用はないって」
せいら「今日の理事長、見たことないくらいカッコいいわね……」
ひばり「くっ……慰める会の準備、完全にムダになったッス……」
玲音「いえ。めでたい誤算です」
数時間の釣行は、あっという間だった。
アジ。
セイゴ。
そして、ブリ。
持ち帰る分は、理事長とあおいが手際よく締めて、クーラーボックスへ入れていく。
初心者五人は、その様子をどこか尊敬のまなざしで見ていた。
せいら「あおい……もう“初対面のふつうの一年生”って言ってた頃が懐かしいんだけど」
玲音「完全に“期待の大型新人”ですね……」
みう「お料理も楽しみですねぇ〜。アジフライと〜、お刺身と〜……夢が広がりますぅ〜」
りりあ「おさかなパーティなのぉ〜♡」
ひばり「ていうか、あのブリ、どうするんスか……。量、エグいんスけど」
あおいは釣り自体が久しぶりだったらしく、ニコニコ顔。
あおい「ふふっ。本当に楽しみっちゃんね〜」
こうして、おそと部初の堤防釣りは、
初心者向けとは思えない釣果で幕を閉じた。